「論理」は「旋律」である。
勉強したくないので、ブログ書きます。
4月から大学院生になりました。
白紙の紙とペンとテーマを与えられて、「テーマに沿って好きなようにこの紙に思ったことを書け」。
そんな「課題」に取り組まないといけないのが私の現状です。
この「課題」に取り組むとき、人は何を考えてどのように執筆していくのか。
換言すれば、どのような背景事情の下に、どのように「論理」を展開していくのか。
これは非常に難しい「課題」であります。
この「課題」には黙示的に以下の制限が加えられています。
すなわち、読む側に伝わるように、そして読む側が納得できるようにテーマに沿った考えを示さなければならないことです。
さて、どうするか。
この壮大な「課題」に取り組まなければならない人達は苦労します。
苦労の原因はたくさんあります。
まず、テーマの意味を理解できない。
与えられるテーマは目前に広がる海原の中からホタテ貝を拾ってこいと言わんばかりの、広大なフィールドに設定されています。
次に、「正解」が分からない。
フィールドが広大であるが故に、「正解」という確たる指針がないわけです。
そして最後に、説得的な説明ができない。
拾い上げた材料がたくさんある一方で、肝心のホタテ貝がない。どうやってホタテ貝を錬成しようか。
これら問題に対応するためにたくさんの人が様々な「方法」を提唱してきました。
「テーマ」を類型化、パターン化して、予めそのパターンに沿った「解答」を用意しておく。
個別に細分化された問題点に対しては絶対的な基準があります。つまり、正解があります。
その正解を組み合わせて大きな「正解」を組み上げる方法です。
テーマの類型化が困難な場合の対応方法もパターン化しておく。
与えられた「課題」がこれまでに蓄積されたどの「課題」とも整合しない場合の対応方法です。
描き方、組み立て方を一つ固定しておき、「課題」に合わせるのではなく、「課題」をパターンに合わせる方法です。
様々な方法論が築かれ、私達は昔ほど苦労しなくなりました。
しかし、それでいいのでしょうか。
パターン化される、すなわち、経験的に積み上げられた「正解」の山から一個取り出してきて、「はい、これ」と渡す。
それって面白いのでしょうか。
この方法が許容される限り、全く新しい「課題」はそもそも生まれないはずだし、全く新しい「課題」が出現したときに、我々は大変な苦労をすることになる。
場合によっては解くことをやめてしまう。
このストーリーに合致する音楽を作ってください。
そんな「課題」が出されたときに、これまで作られてきた音楽の一部分を変形して提出したのでは味気ない。
これ、聴いたことある、と思われると新鮮味もなくなります。
自分で新しい旋律を奏でるところに創作性だったり斬新さ、面白さ、関心が生まれます。
そういう意味で、「論理」は「旋律」と同じです。
与えられたテーマに対して、どのように旋律を組んで、奏でるか。
聞き手が心地よいと思える旋律をどのように組み立てるか。
それは、そう、初めに音を出したときから乗っかるレールは完成します。
出だしの旋律を決めた段階から、この楽譜の進行は決まるわけです。
その意味で、「課題」への取り組みは最初が命です。
初っ端に、どの音を出すか。
最初から他人に定められた旋律で音楽を奏でることに何の需要があろうか。
序章を始めた段階でその音楽は終わりに向かって進行を始める。
そして、最初の音で終わりへの道程が定まる。
「論理」は「旋律」であり、完成した「論文」は「楽譜」である。
読み手が読んで理解できる、読み手が後を追って同じ音楽を奏でることができる。
論理構造の組み立てに旋律を奏でるイメージで取り組み、聞き手にとって心地が良い音楽を完成させる。
そんなことをふと思いました。
以上